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前段

ドン・マックリーンのアメリカン・パイと言う曲を知っていますか?

僕が18歳の頃、世田谷の豪徳寺駅近くの喫茶店で

当時、いくらかのお金を入れるとシングル1曲を聞けるジュークボックスというものがあったのですが

6分を超えるその曲全部を聞くためには

2曲分のお金を、機械に入れ、シングル版の裏表を聞かなければならなかったことを思い出します。

当時、北区赤羽に住んでいた僕が、なぜ豪徳寺の喫茶店でそれを聞いていたか?

写真で、哲学するというと大げさになるが

まあ、言ってみれば

他人(オーディエンス)がインスパイアーされる写真を撮りたいものだと思っている。

世界の構造とか言うと、やはり大げさになるのだけれど

それが垣間見えるような、写真を提示できたら、幸いである。

この辺りは、70年代の「プロボーグ」の論調と一緒だろう。

さて、では何をインスパイヤーしようというのか?

他人が何をインスパイやーされるかは、撮影者の知ったことではない。

もちろん、単なる言葉や概念を想起させるだけならば写真は要らないわけで・・・・

そこが、写真(やイメージ)表現の面白いところだと思ってはいるのだが・・・

まぁ、しかし

「存在は孤独だ」とか、「世界は不条理だ」とか、「気分がいい」だとか

そんな程度なのかもしれないナと思う、今日この頃。

コンタックスG2という、非一眼レフのフィルムカメラにTPを詰めて

「錯覚の海」を漂っていた。

実は今日も、デジカメを持って「錯覚の海」を漂うつもりだったのだけれど

昨日歩きすぎたせいか、三日連続で「錯覚の海」を漂ったせいか?

カメラをバッグから出す気力も、わかなかったのである。

「錯覚の海?」・・・とっても気に入っているフレーズである。

写真を撮る(シャッターを切る)という行為と

写真を作る(自分の写真として自ら承認する)もしくは、「撮れたと確信すること」は

ずいぶん違うことのような気がした。

フィルムの非一眼レフと、シャッター即プレイバック出来るデジタルカメラを使い分けてみると良くわかる。

フィルムの非一眼レフの場合、

どんな写真が撮れているかは「後の問題」「別の問題」で、

何を?どう?イツ、シャッターを切ったかが、撮っている段階では、重要なのである。

対してデジカメでは

すぐにプレイバックして画像確認が可能なので、撮ったすぐの時点で

写真としての出来上がりを自己評価することになる。

デジカメでは、撮影者の視点と、評価者の視点がほぼ同じ、または重なってしまうと考える・・・

これは、実は写真表現にとって危険ではないか?

フィルムカメラで、撮影者はどんな写真が出来上がっているのか、想像はしても

想像通りの写真が撮れているわけでもなく

もちろんプロの僕だって、然りなのだ・・・だから仕事では、ポラロイドで撮ったりする。

つまり仕事では、ある期待値としての予定調和があるわけだ。

この問題は、かなり根深く重要であると思いながら、今この場で上手くまとめられない。


要するに、撮影者の視点と、写真を観察する視点は

別のほうが望ましかったり

その視点が近すぎたり、重なったりすることで、予定調和になるような気がするのである。

僕の仕事の半分は、予定調和で「そこそこオーケー」、プラスがあるともっと良いのだが。

上の写真、そのプラスだと思っている

もしかしたら、予定された調和はなく、プラスしかないかもしれない。

一応、仕事(コンペのプレゼン用ではあるが)の写真なのだ。

このページ、「錯覚の海」というお気に入りのフレーズをキーワードに書こうと始めながら

全然結論めいたものに到達していないのは、僕自身が良くわかっている。

つまり、「漂っている」のだろう、錯覚の海を漂いつつ、

次は「ストーリー」という写真をお見せしたいと、企んでいる。

「今週のポラ_69、錯覚の海」