やめたとしても、イリュージョンだったり幻想だったりの迷宮を彷徨う事には違いない。 異論もあろうかと思うが、 荒っぽく言ってしまえば 「人間の見ている現実など、すべて錯覚であったり、イリュージョンであったりする」というのが 「僕の認識である」 一応一枚、錯覚の海のストーリー写真は貼っておこうと思う・・・・ほとんど意味不明ではある。 なぜ、心地よい錯覚の海から上がることにしたか? 写真を撮る上で、多分、一番大切なことに気づいたからかもしれない。 それは動機である、動機は写るのである。 そのためには、 ある程度の撮影技術か、並外れた思い入れが必要かもしれない。 動機の背景は、関心・好奇心であったり、感動であったり、主張であったり・・・・それでよい。 最低の動機のひとつは、「上手い写真」を撮って有名になったり、世に出ようとする動機。 よく職業カメラマンが「作品」と称している「あれ」である。 「あれ」は習作と呼ぶのが正しい。 「お金を得るのため」という動機も、結構バレてしまうので、ヨロシクナイ。 僕のように、写真を撮ることを生業にしているものにとって お金を得るというのは、常について回る、最も重要な動機ではあるのだが 客の要望にこたえるとか、被写体を綺麗に見せるとか、動機付けすることで 解決できると思っているし 強い動機付けできるような魅力を探り 対象の人物なり、商品なり、企業なりに好奇心を持つことだ。 実際、僕はそうしているつもりだ。 さて、純粋な動機?望ましい動機?、美しい動機? オーディエンスは、その動機に共感できるか? 少なくとも作家は、それを考えなくてもいい・・・画商なりプロデューサーなりが考えることだ。 強い動機と、動機の背景にある人間の好奇心や感動が「写った写真」が魅力的である。 当たり前のことを書いてしまった・・・・つづく(多分)
来週は旅行に出る、ベトナムへである・・・・動機?それは食欲かな。 |